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たいき探訪記

大洲地区を訪ねて

IMG_9765今回は懐かしい昭和30年代の空気が漂うまぼろし商店街一町目「ポコペン横丁」を訪ねました。

ポコペン横丁はおおず赤煉瓦館の横にあります。4月~11月は毎週日曜日、12月~3月は毎月第3日曜に開かれており、県内外からの観光客で賑わっています。

 

なぜ、ポコペンという名前なのかというと、かくれんぼや缶けりなどで使われていた「ポコペン、ポコペン、だーれがつっついた、ポコペン」という遊び言葉が語源となっているそうです。IMG_9772

 

看板をくぐると、まず出迎えてくれるのはペコちゃんおみくじ。ここは大凶がでても大丈夫。いいことがあるそうですよ。さらに奥に進むと、懐かしいおもちゃや雑貨などが並んでいます。展示用のものもありますが、自由に遊べるコーナもあり、お手玉やベーゴマ、竹馬など昔の遊びを体験することができます。

訪れた時は、ポコペン小学校特別授業が開かれており、鏡の不思議についての授業が行われていました。子どもだけでなく大人からも歓声が上がっていました。さらに奥に進むと「思い出倉庫」もあります。

ポコペン横丁は、体を使った遊びを体験できたり、ステージライブではみんなで歌を歌ったり踊ったりなど、人と人とがつながる「場」となっているようです。お父さんお母さんには懐かしく、子どもには楽しい。そんな親子で楽しめる空間がポコペン横丁にはありました。

たまには、テレビゲームなどから離れ、昔の遊びに親と子で一緒に楽しむのも良いかもしれませんね。IMG_9758IMG_9822

 

ここで使用されている「ポコペン」とはあくまでも遊びに使われた言葉であり、差別用語でありません。

内子地区を訪ねて

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かつて内子の経済的繁栄を支えた木蝋生産を営んだ商家の上芳我邸が昨年の4月より「木蝋資料館・上芳我邸」としてリニューアルオープンし一般に公開されています。内子の木蝋生産は明治から大正にかけて製蝋業者数23軒を数え、最も盛んだった時期には国内最大の生産量を誇っており海外にも輸出されていたそうです。敷地、木蝋生産施設などを当時の格好で残しているのは全国でも上芳我家だけだそうで、貴著な産業・文化遺産です。
上芳我邸の資料館は、有料ゾーンと無料ゾーンに分かれており、有料ゾーンは邸宅部と木蝋資料展示棟で構成され、無料ゾーンは中庭にある製蝋施設・設備などの展示スペースです。
無料ゾーンに展示してある蝋搾り小屋で蝋のできるまでの工程を知る事ができます。ハゼの実を生蝋に変える作業ですが、①ハゼの実を砕いて粉にする作業、②その粉を蒸す作業、③蒸した粉を絞る作業、これらの作業は、独立した部屋でそれぞれ行われており、それぞれの作業場は①「こなし場」②「鎌場」③「搾り場」とよばれ「搾り場」では実際に作業でるようになっています。
蝋縛り小屋で生蝋を生成した後、漂白作業をして白いさらし蝋となります。本芳我家初代、弥三右衛門によりさらしの技術「伊予式蝋花箱晒法(いよしきろうばなはこさらしほう)」が開発され、作業の効率化・均一化、それにより品質が向上し巨万の富を築くこととなっていったそうです。

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肱川地区を訪ねて

昨年の12月上旬。車を運転していると雪が降ってきました。一瞬で路面が白くなりかけ「明日には積もるのかな」と思いながら、例年の冬よりぐっと気温が低く寒いように感じられた中、以前より気になっていた肱川丸山公園内にある句稗の道を訪ねてみました。
句稗の道は長さ500メートル程ある、坂道に肱川町で開催された俳句大会の入選句が碑に刻んであるそうです。
細いその坂道を歩いてみると、辺り一面、紅葉の落ち葉のじゅうたんで、11月の中旬色付いていた頃はとてもきれいだったんだろうと想像できました。

?まず最初の句稗には

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「花の私語 聞こえて来そう 風の里」

 

 

 

また少し歩くと

 

?IMG_5721  「水の意に 風の意に添い 花筏」

少し進むと

?IMG_5726「世に出でし 歌麿版木 花の里」

 

 

 

 

 

そして

④IMG_5734「鶯や 山は静かに 湖を抱き」

 

 

 

 

 

 

⑤IMG_5738  「文楽を 守りて 山の子 卒業す」

等、肱川の春の情景や、文化等を詠んだ句が全部で20句ありました。どの句も詠んだ時の描写が浮かんでくる美しい句でした。まだ春は少し先ですが、句を詠んでいると、桜咲く春を待ち遠しく思ってしまいました。

番外編

皆さんは右写真2枚のような物体を見た事があるでしょうか?
正解は、電子基準点と呼ばれているモノなのですが、見た事ありますか?
電子基準点は、全国1240ヶ所に約20キロメートルの間隔で設置されており、外観は高さ5メートルのステンレス製ピラー(柱)で、上部にGPS衛星からの電波を受信するアンテナ、内部には受信機と通信用機器等が格納されています。測量の基準点として活用するとともに、全国の地殻変動を監視している装置です。
全国各地にあるこの装置により、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0)では、最大で水平方向に約5.3m、上下方向に約1.2メートルという極めて大きな地殻変動が観測されたと国土地理院のHP上に説明がありました。
この装置がある場所ですが、写真1は冨士山公園にあります。ちょっと近未来すぎていて公園内ではかなり浮いているのですぐに見つけることができると思います。また写真2は肱川風の博物館駐車場にあります。ピラーの形が違うのは製造年により、大きく3種類に分けられるからだそうです。(ちなみに写真1のタイプが03年以降作られた新しい形)
もう1箇所この装置が設置してある場所を知っているのですが、探してみるのも面白いかもしれませんので、ここでは秘密にしておきます。場所のヒントは「2012年の紅白司会者人気グループのグループ名」です。

写真1
写真1

写真2
写真2

豊茂地区を訪ねて

今年の秋分の日は例年とは少し違っていました。普通は23日ですが、今年は22日でしたね。秋分の日は23日がずっと続いており、23日以外になるのは1979年9月24日の33年ぶり、今年のように22日になるのはなんと、1896年以来の116年ぶりだったそうです。お墓参りをされた方も多いと思いますが、金山出石寺山頂付近に余り知られてはいない(私は知りませんでした)と思いますが、米軍飛行艇遭難の慰霊碑があります。
昭和27年(1952年)8月8日・午前2時15分。米軍双発飛行艇が濃霧により豊茂地区の山腹に激突・炎上し、米軍乗組員14名が全員死亡したそうです。
その時、金山出石寺の執事・菅弘宣師が仏壇を作ってめい福を祈ったそうです。
豊茂地区では、事故から約40年を経過した平成5年に慰霊碑建立の提言がされて、平成21年に慰霊碑が完成。今年は事故が起きてから60年忌を迎えるにあたり、8月5日には慰霊祭が行われたそうです。
慰霊碑はかなり高地にあります。特に案内板とかはありませんが、長浜大和地区より金山出石寺を目指して上がって行き、出石寺へ到着する手前にひっそりとあります。

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