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たいき探訪記

河辺地区を訪ねて

 今回は、河辺川に架かる屋根付き橋「浪漫八橋」の三嶋橋とふれあい橋。そしてその周辺を訪ねてみました。
 河辺支所より県道55号線を北上していくと、以前の探訪記でも紹介したことのある龍王橋がみえてきます。龍王橋を過ぎてすぐに、ふれあい橋が見えてきます。ふれあい橋は河辺ふるさと公園のシンボル施設として架設したもので「浪漫八橋」の中では一番新しく平成4年にできた、高欄など上部分は総ヒノキ造りの立派な橋です。主観ではありますが、「浪漫八橋」の中では一番美しい橋ではないかと思っております。
 次にふれあい橋を北上していくと右手側に三嶋橋が見えてきます。三嶋橋は大正12年に架設。橋に屋根をつけたのは、三嶋神社の神様への信仰心をあらわすためといわれています。対岸の山を車で登り三嶋神社へいってみると、境内には県指定の天然記念物である大きなシラカシの木が。でも、このシラカシより大きな木がある神社もあるそうで機会があれば是非今度行ってみたいとおもいました。
 もう一か所、興味があった夜明けの道記念碑にも行ってみました。三嶋橋をさらに北上していくと、細い路上の右側に大きな石碑がでてきます。近代日本の夜明けに高遠な志をいだいて奔走し、土佐藩を脱藩した際に通ったとされる約15キロある河辺地区の山道を文化的遺産として保存し、龍馬の偉業をしのぶために建立した石碑です。
 最近は歴史好きの女性を歴女(レキジョ)と呼んだりする歴史ブームや、大河ドラマ「龍馬伝」の影響もあり、坂本龍馬に注目が注がれています。
河辺地区にはふるさと公園の近くに龍馬脱藩の日記念館もあり、小さい資料館ではありますが、詳しく龍馬脱藩時のルートを知ること等ができますので、(入場料無料・係員はいないので電気等はセルフ式)まだ訪れたことのない方は是非一度訪れてみてはいかがでしょうか。

ふれあい橋
ふれあい橋

夜明けの道記念碑
夜明けの道記念碑

村前地区を訪ねて

 今回は内子町村前地区を訪れました。国道56号線から知清橋を渡り、県道305号線に入って20分ほど車を走らせると、見晴らし台への手作りの案内板が見えてきます。
 訪れた日は天気も良く、見晴らし台までの道には桜が満開で、見晴らし台からは遠くの山々まで眺めることができました。見晴らし台にはログハウスと、すぐ近くにミニ鍾乳洞があります。そこに書いてある電話番号に連絡すれば見学することができます。早速連絡して、管理している大宮武重さんに案内してもらいました。ログハウスの中には、昔の鍾乳石の欠片や見晴らし台の風景写真が飾ってありました。
 ミニ鍾乳洞は石垣にはさまれた道を少し下ると、フェンスの入り口があります。中へ入り石段を降りると、頭上から伸びた鍾乳石がありました。昭和63年に畑の造成作業をしているときに見つかったというこの場所。時間をかけてできた独特の形は面白く、自然の力の凄さを感じます。天井には冬眠中のコウモリの姿も見ることができました。
 また、この辺りには、大屋敷と橡が峠の伝承や昔話が残っており、紹介する看板も作られていました。
 ミニ鍾乳洞を見に、出掛けてみませんか?

見晴らし台からの眺め
見晴らし台からの眺め

ミニ鍾乳洞
ミニ鍾乳洞

札懸寺を訪ねて

 弘法大師空海が修行のために四国を訪れ、そのゆかりの札所を総称して四国八十八か所といいます。JA愛媛たいき管内にも、これまで「たいき探訪記」で紹介した出石寺、十夜ヶ橋などが番外霊場とされており国道56号線を歩くお遍路さんを目にすることができます。今回は、番外霊場の1つである大洲市野佐来の札掛山札懸寺を訪れました。
 札懸寺が弘法大師とどのような関係があったか調べてみると、この寺には、弘法大師が休まれたという松の木があったそうです。現在では、根本から切られて見ることはできませんが、この松の木のそばで、お遍路さんにお茶の接待をしていたそうです。また、他のガイドブックによると「弘法大師が松の枝に仏像を祀り、悪霊退散と五穀豊穣を祈祷してこの寺を開いた」という記述もあるようです。このような伝説が残ることから、敷地内には弘法大師像が立っており、四国八十八か所番外霊場とされています。
 札懸寺の現在は、住職もおらず地域の方の協力で清掃作業等が行われながら保存されています。場所は、南久米小学校正門のすぐ横の道を登ってすぐ。宇和島から大洲に抜けるお遍路さんが立ち寄り、弘法大師空海の姿を思い浮かべているようです。

門には「四国霊場札掛」の字が見える
門には「四国霊場札掛」の字が見える

弘法大師とされる石像
弘法大師とされる石像

高昌寺を訪ねて

 内子町にある、とても大きな涅槃仏の安置されている高昌寺。室町時代、嘉吉元年(1441年)に防州泰雲寺の覚隠禅師門下の十哲であった大功円忠大和尚が、現在の内子町松尾地区に、寺院を創建し、浄久寺と称したのが高昌寺の起源です。
 平成10年11月1日に安置された高昌寺の石造涅槃仏は、長さ10m、高さ3m、重さは約200tあります。涅槃仏は釈迦が入滅する様子を仏像として表したものです。ほとんどの場合、右手を頭の下にしくか、右手で頭をささえるようにして横になった姿をしています。18世慈舟台漸和尚によって創始された「涅槃まつり」は200年の歴史をもっており、毎年3月15日に行われています。本堂では地獄極楽絵図を観賞できたり、よもぎ餅が振舞われたりと、多くの人が訪れ賑わうそうです。
 高昌寺には孝子桜と呼ばれる桜の木があります。松山の山越えの里で、桜の花が大好きな老人が病に倒れ、死ぬ前に桜が見たいというのを聞いた息子が一心不乱に祈ったところ、次の日見事な桜の花が咲いたそうです。これによって病気の父親を慰めたことから、孝子桜と呼ばれました。高昌寺の桜はこの木を分植したものだそうです。松山龍隠寺の親木は松山空襲により枯死してしまったため、今はこの木が残るのみです。

高昌寺
高昌寺

石造涅槃仏
石造涅槃仏

大洲少彦名神社を訪ねて

 今回は菅田地区にある大洲少彦名神社を訪れました。道路沿いに見える鳥居をくぐると、紅葉した木々に囲まれ真っ直ぐにのびる参道は、色づいた落葉が敷き詰められていてとても綺麗です。続く石段をしばらく登ると、少彦名神社の拝殿が見えてきます。右手には絵馬が並び、正面には参拝に来られた方が俳句や短歌などを投函する投稿箱も置かれていました。
 少彦名の命は、以前に探訪記で壺神神社を紹介した時に触れましたが、医薬の神様として知られており、愛媛では大国主の命と共に道後温泉を発見した後、大洲の地にたどり着いたとされています。そして、ここには少彦名の命溺死伝説が残っています。一寸法師のモデルともいわれている少彦名の命は、身体がとても小さい神様とされています。大国主の命と共に大洲を訪れ肱川を渡ろうとした際、少彦名の命は深みにはまり溺れてしまいました。この土地の人々が亡骸を見つけ、丁重に葬り御陵を設けてお祭りしたのが、大洲少彦名神社であるといわれています。少彦名の命の伝説は様々あり、命の神体を祀るところは全国に数多くありますが、終焉の地を祀るところは珍しいそうです。
 医業・薬業・農業・建設業などの守護神とされており、大洲少彦名神社では春と秋には大祭が開かれています。

参道
参道

少彦名神社拝殿
少彦名神社拝殿

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